多胡辰敬って②

1-1 多胡辰敬

今日は多胡辰敬(タコトキタカ)についてお話します。

☆多胡辰敬 像

http://www.pref.shimane.lg.jp/sekaiisan/iwami_ginzan/a_special_exhibition_002.html


おそらくこの人物を知っている方は、かなりマニアな方だと思います。

ご存じの方はおそらく下の5パターン

1、「多胡辰敬家訓」で知っている
2、Koeiさんの家庭用ゲーム「信長の野望シリーズ」で知っている
(最近の作品では登場していません)
3、尼子氏に詳しいかた
4、縁のある土地(島根県大田市久手町など)の方
5、専門家の方

そんなご存じの方にはいまさらですが、
戦国期において特異な人物であると私は思うので
私が持っている知識で紹介します。

生年不詳(1494年という説もあります)~永禄5年(1562年)
山陰の雄、尼子氏の家臣で、正式に士官したのは30歳中盤の頃と
言われています。
6歳で将棋の強さで出雲守護京極政経の目にとまり、
12歳で一度京に上り京極氏に仕えたとも言われていますが、
その後時代の乱れにともない一度故郷(出雲か?)に帰ります。
その後、職を転々とし、24歳頃より諸国を漫遊することで、
見聞をひろめ、その思考を深めたようです。
毛利氏との戦いが激しくなるなか、最前線である、島根県大田市
刺鹿(サツカ)岩山城の城主を主君尼子晴久が求めていることに
自ら応じたようです。当時50歳くらいであったようです。
40代~50代が平均寿命の時代ですから、かなりの老齢ですね。

当時世界の銀の三分の一の産出量を誇っていたともいわれる
石見銀山」攻防の要衝でもあり、
本人は当時から死の覚悟は当然決めていたのでしょう。
そのようななかで「多胡辰敬家訓」を記録したようです。

尼子晴久は一時その勢力を盛り返し、
祖父経久以上の版図を勢力におさめるものの、
その勢いは長く続きませんでした。
そのようななかで、何度かの合戦を繰り返しながら、
ついに1562年、毛利氏の軍勢の前に、
衆寡敵せず弟(正国)や息子(重盛?)
ともに討ち死にしてしまいます。
城主となり19年後のことでした。
本人が思っていたよりも長く生きることができたのかもしれません。

当時の知行は10000石~20000石(2000貫)くらいであったようですので、
直接動員できる兵は500人もいなかったのではないでしょうか。
近くには他の尼子方の城もありましたが、
その応援兵や浪人をいれても1000人以下というところでしょうか。

毛利軍の山陰遠征軍は2万とも3万言われてますから、
その一部が岩山城を取り囲んだとしても数千。
標高70メートルほどの山城では勝負になりません。

そんななかでも、城主に手をあげたときの
「命は軽く、名は重い」の信念のもとに
一族ともども討ち死にして果てました。
しかし、一部の親族は生き残り、娘の血縁である亀井氏に仕えたり、
(その後津和野藩の家老も代々務めています)
 地元の有力者の養子となり、野に下ったものもいるようです。

ところで先にも言いましたが。この人物はさほど有名ではないのです。

今回、この紹介文の参考とした、「日本教育文庫」もそうなのですが、
「家訓」、「掟」といえば、「早雲殿(北条早雲)二十一箇条」、「武田信玄家法」、
鳥居元忠遺書」、「前田利家書置」などが有名です。

どれもそうそうたる人物です。歴史に詳しくない方でもご存じでしょう。

そんな人物にまじって、なぜそのような人物の家訓が
今も高く評価されているのか。

私が彼にひかれてしまった理由を、
家訓を紹介しながら少しづつ紹介できたらと思います。

参考文献「日本教育文庫」